人間性の回復 地域共同体
孤独は山になく、街にある 無縁社会
私は、住み慣れた安曇野から一年間ほど渋谷区代々木のオフィースマンションに移って仕事をしたことがあります。(1997〜98)
都会で生活をしてみて改めて思い知らされたことは、生活することすべてにお金がかかり、お金の感覚を麻痺させないと暮せなく、お金を持っていない人には、非情な街だと言うことです。これでは普通の商売では挫折感を味わうだけだと思ったり、高層ビルを見上げ、あそこで働いている人々は、一体何をやって飯を食っているのか、あれだけのものを賄えるそんな良い仕事が果たしてあるのかと不思議に思ったほどです。
交通渋滞や喧騒と無機質な生活空間、溢れる情報そして疎外感、街には溢れる残飯、他人ごととは思えないホームレスの出現、髪を焦がし、肌を焼き、皮膚に金具をさし自虐する若者たち、企業倒産や一家離散に引導を渡す高利貸し(商工ローン、サラ金)のCM放映、相続税のために立派な屋敷が無残にもぎ取られ、そこに現われた痛々しい光景、そして、何よりも無秩序に肥大化した東京、そこに封じ込められ、精神的に圧力をかけられ、じっとしてはいられない人々。人々はこの辛い現実から目をそらし、この苛立ちに空しさを知り、疑うことをやめ、馴致してしまい、諦めることで生活をエンジョイしているように思え、何かが違うと違和感を持ったものです。この不安は、単に首都機能の移転や景気が良くなれば解決する問題とは到底思えません。
私は、よく仕事の帰りに明治神宮に参拝したり、参道に大きく掲げられている五箇条の御誓文を心で唱えることで、生きていることの証を感じたものです。鬱蒼と繁る大木の中を歩きながら思ったことは、信州には、これだけ立派な大木は育ちません。首都東京は、ものを育む豊穰な土地の上に建てられています。だから日本の首都になったのではないかと思うようになりました。今、問題にしなければならないことは、首都機能を移すことではなく、私たちの心の在り方を問い直してみることだと思うのです。この大変な時にもう一度、明治維新を導いた大我を学び、勇気をもって現実を見つめることだと思います。
モノをバラバラに破壊し、分析・解析する学問は、時代と共に大きく発達しました。しかし、バラバラにしたモノを統合・再構築させる気高い思想や、それをもう一度元に戻す科学技術は今だに持ち得ていません。再生不能なモノが、不安定な状態で、溜まりに溜まり秩序の保てない社会になってしまいました。これは、科学技術の限界を如実に現わしています。このままでは、盲目に努力し、破滅の道を歩んでいるように思えてなりません。
しかし、一方で、私たちは、欲望にまかせ、どんどんモノをつくり、使い捨てる消費社会から、浪費を抑え、生活水準を下げてでも、今あるモノを節約し、修理し、大切に使い、そしてリサイクルする循環型の社会に戻ろうとする気運が芽生えています。「もったいない」と言う素朴な気持ちが生活に戻ってきました。3年で買え換えていたクルマを、10年間乗り続けようという、モノに対する大きな心の変化ですから、今までの不況とは異なり、既存の設備型産業は、適正規模になるまで、設備の廃棄をしたり、再構築し直したり、産業そのものを循環型にダウンサイジングせざるを得なくなっています。産業構造の大変革です。
これは、国や企業や家庭でも収入に見合った経営に戻すことを意味しています。これまでのマネーゲームでのツケを経営利潤で埋めようとしている分けです。苦しくて当然です。この中にあって3万人もの自殺者を出しています。この歴史の流れに責任をとれる人はいません。過去の精算はするとしても、命までも絶つ必要はありません。新しい時代にもがき、新しい時代をつくるんだと言う気概で、時代、地球が求めている産業を起こすことに積中すべきです。モノやエネルギーを際限なく消費しつづける時代は終わりました。経済の永続的な発展は、あり得ない現実に直面しています。
また、全て国家予算内での社会福祉も行き詰まりをみせ、お金に頼る福祉行政から地域住民が、自由意志で時間と労働を、地域社会に供出する民間ボランテイアの力に委ねざるを得なくなっています。社会コストの削減と制度の簡素化を考えなければなりません。この原点は、農村社会にあります。人間らしい暮しを願うものであれば、自ずと都会の鬱積したエネルギーは、都会から地方に大きく流れ、等身大のシンプルライフに落ち着いて行くはずです。
想像してみてください!何もかも飲み込んで行くブラックホールのように、今、コンピューターが現存するモノや制度をどんどん飲み込んでいます。将にもう一つの現実が、コンピューターに集積され、現実と相待する裏の世界が形成されています。この裏の世界が、時間も空間も超越したことにより、私たちの意志決定と行動の在り方で大きく社会を変えることができます。そして、これからのエネルギー資源や地球環境を考えると万民が、太陽の恩恵に感謝し、太陽から食糧やエネルギーを授かり、その中で生きるシンプルライフを是とする宇宙観とそれを分かち合い助け合う暮らしが求められています。これは、日本の暮しの歴史を探って見ると、自然と共生する文化こそが、日本の生活様式であったことに気づくはずです。
土地のないマンションが7、000万円もしています。田舎では太陽光発電、下水道、菜園つきの自給自足型の一軒家が新築でき、その上、老後の生活費がこれで賄えます。自然や他人から隔離された閉鎖型の住まいよりも、日本の四時を楽しみ、地縁、血縁の悲喜こもごもに人間らしさを享受し、人にも、自然にもオープンに大らかに生き、そして野辺の送りで地に還る。このあたりまえの生き方がいい。
太陽の下、元気なお年寄りたちが、童心に戻ってゲートボールに興じています。信州には、おだやかでのどかな暮らしがあります。今の言葉で言うと社会福祉ですが、時間や労働の貸し借りが、地域社会の暮らしの中に綿連と生きています。お互いさまと、いたわり合う民情が、人々の間に今も生きています。この心の貸借表の帳尻が、時間が経ってみると、ピタリと合うからこそ、今も、世代を超えて受け継がれています。この心の結びつきを結(ゆ)いといいます。このおもいやりや分かち合う気持ちを持てる人は、自然の恩恵とともに、信州の人々が温かく迎えてくれます。自然や社会は、個人にとってみればもともと非情なものです。これに抗する生き方が、肩を寄せ合い、半分っこし、分かち合い、地縁血縁を強めてきました。このことを都会人よ笑わないでほしい。お金にたよる社会保障が、破綻し、お金をかけないでも安心して暮せる方法が、今、必要です。私たち日本人の精神的風土は、自然を崇め、土着の家族や地域社会にあったはずです。これが「もののあわれ」を血とする私たち日本人の行動様式です。
今、結婚を敢えてしない若者が増えてします。それ故に結婚ができないでいる若者が悩んでいます。人の気持ちですから性急な解決策はありませんが、人にも、自然にもオープンに生き、有情を知ることにあると思います。母親の選んだところが、生まれてくる子どもたちのふるさと。すべてのものが友達だったふるさと。このふるさとを大人の郷愁にしてしまわないで、うまれくる子供たちのために何を優先させるべきかを考える時です。本当は、人が生まれるのは、大自然が人を生ましめているのであって、各人はそれを自分の子と思っていますが、正しくは、大自然の子です。それを育てるも大自然であって、親はそれに手を貸すだけです。
人間は「自然」に遊び戯れ喜ぶ本能があります。私たちは、自然から遠ざかるにつれ、菌に対する抵抗力がなくなり、免疫不全の体になるんではないかと言う不安があります。特に「土」がきたない物だと言う考えが衛生教育に取り入れられてから顕著です。ソフトドリンクやビールを、水代わりに飲まなければならない生活環境は、やはり異常です。
しかし、本能的に、人間が自然に戻りだしています。耳が痛いほどの静けさ、手の届きそうな満天の星、ガブガブ飲める水 大切にしたいモノばかりです。
私たちのふるさと信州は県をあげて、ふるさと定住事業に取り組んでいます。嫁さんや婿さんも、また、退職されてのんびりと暮らしたいご夫婦も大歓迎です。そして、働き盛りの人も、都会をマーケットに田舎暮らしをすることが、交通網や通信インフラの発達のおかげで可能になっています。インターネット安曇野では、「いざ、故郷へ帰ろう」を旗印にIターン、Uターンキャンペーンを行っています。
「故郷につながる道・・・信濃路」は、長野県の各市町村のふるさと定住事業などを、それぞれ市町村ごとに紹介しています。
・田園ルネッサンス
・都会と信州とを生活の舞台とするライフスタイルはいかがでしょうか。
・臼井吉見著 大河小説『安曇野』のふるさと
インターネットで村おこし、町おこし。
ネットワークで信州を豊かにする
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