二 若一王子神社の祭礼
   
  一般に「大町の夏祭り」といわれる王子神社の祭りは、同神社の境内社、八坂神社の祭りと、若一王子神社の例祭を総称している。前者は7月14日、15日、後者が7月16日、17日である。

1 八坂神社の祭礼

八坂神社の本社は京都の八坂神社(祇園)で、祭神は神話の天照大神の弟、須佐男命である。八坂神社を町の人たちが天王様というのは、神仏習合による須佐男命の異称である午頭天王を省略した称号からおこっている。
 大町の八坂神社の奥社は、古くから居谷里の天王沢にあり、現在も居谷里池の水源地に水神として祀られている。この神社は恐らく常に京都に往来していた仁科氏が、その居館・館之内周辺を開拓するため開さくした居谷里堰の水源地を鎮護するため、京都の八坂神社から勧請したものであろう。それがいつごろか九日町柴宮の地に里宮がおかれ、若一王子神社の境内社として、若一王子神社の祭礼と合同して行われるようになったと思われる。今でも、居谷里の奥宮では、昔からの伝統に従って、京都の八坂神社の祭典と同一の7月1日に祭典が行われ、そのあと「天王おろし」といって、サワラの若木に神霊を宿して里宮に移す神事が行われている。
 そして7月14日の前夜祭には御輿が御旅所まで運ばれ、翌15日の天王祭には御輿の巡行が行われるのである。昭和45年ころまでは、人に肩にかつがれた御輿が所定の道順により町内を巡行したが、その際、人々は初なりの野菜を御輿に投げ上げて供えるとともに、争って御輿の下をくぐりぬけるのが例になっていた。なお、若一王子神社の祭礼は7月16日の前夜祭に引き続き17日に行なわれている。
 こうして若一王子神社の祭礼は、7月15日の天王祭に引き続き、16日には稚児行列、17日の例大祭には流鏑馬(やぶさめ)行列や6台の舞台が巡行する。この中でも特に流鏑馬は全国的にもあまり例をみない神事として知られている。

2 稚児行列

7月16日には、若一王子神社の前夜祭が同神社で行われる。昭和10年ごろから、各町内の幼児による稚児行列が同日行われるようになった。揃いの稚児衣裳を着飾った百数十人の男児や女児が、父母のいずれかに伴われて大町駅前広場から五日町、八日町を経て本町通りを行進、若一王子神社に至る。その情景は、大町の夏祭りに欠くことのできない風物詩になっている。

3 流鏑馬(やぶさめ)の神事
    市指定無形文化財 昭和46年12月10日指定

「やぶさめ」の起源は、「かけうま」とか「くらべうま」という神占いの神事が発展していて、鎌倉時代の武士による武技になったもので、若一王子神社のやぶさめ神事は、京都の加茂神社、鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮とともに、我が国の三大やぶさめの一つといわれている。
 流鏑馬のことを大町では、イタイ(射隊)とか、イテ(エ)(射手)とも呼び、
出場する子供をイタイボボ又はイテボボ(ぼぼは子供をさす方言)とも言っている。
 流鏑馬は中世以降仁科氏によって招来されたものと伝えられるが、明治維新までは6月16日には仁科神明宮で、翌17日には若一王子権現で引き続き行われてきた。明治維新後両社の祭日は新暦により一月おくれの7月に改められたが、仁科神明宮の祭日は、後に9月15日となり、やぶさめも廃絶された。
 射手について仁科氏時代のことはわからないが、永禄末年仁科氏滅亡後は、神明宮三神主の首席検校家より一騎、仁科氏の支族で宮奉行の渋田見家より一騎、武田氏により結成された大町十人衆代表の曽根原家より一騎、計三騎で奉仕した。その後検校家よりの一騎が宮本地区より出すことに改められ、文化6年(1809)からは大町十人衆で交替して一騎を出し、明治維新に至った。明治維新後は若一王子神社だけで行われることになったが、その際、射手は希望する町内から参加することに改められた。その結果、10町内が出場することになり、氏子中で両親のそろっている家庭から選ばれた5歳から10歳くらいまでの男児10騎が奉仕している。昔は数年間不幸(葬式)のなかった家の長男という制限があり、一家とも精進潔斎の上奉仕し、出場は一家一門の名誉と考え、近隣、親戚や縁者を招待して祝ったのである。
 りりしく化粧した射手はもとは古式床しい狩衣を着け、手袋、むか袴などの射手装束に身を固めて、襷をかけ、太刀を佩いて扇を持ち、背には征矢をさした箙を負い、紋所を染めた白絹の鉢巻きをして、鳥の羽毛などで飾った綾威笠をかぶり、装いをこらして馬に乗る(この装いは明治維新後華やかな現代のものに変えられた)。そして、町内ごとに揃いの従士姿で、陣笠をかぶり、草鞋ばきの軽装をした7〜8人の青年が、射手の脇添い、馬の口取り、弓持ち、大団扇持ち等として従い、神社関係者、年番、父親などに附き添われて隊伍堂々と市内を行進する。
 こうして町内の射隊は、まず自分の町内を一巡したあと、ぶたいとともに町尻の五日町に集結して小憩後、三日町、大黒町、九日町、六九町、北原町、白塩町、上仲町、下仲町、南原町、仁科町から出場の10騎が隊伍を整えて出発、駅前から出場の町々を廻り中央道路を行進して神社に向かう。境内入口では、神官の御祓いを受け、古式にのっとって長い参道を3回往復したあと、境内にしつらえられた三カ所の的板を一往復に一回ずつ、計3回にわたって射る。その的板は、古来の伝統どおり、かって神明宮の御杣山の山奉行であった平地区野口の谷口氏が供進し、矢竹は北安曇郡八坂村一の瀬勝野氏から供進されたものを使用している。
 境内にひびく「ハオー、ハオー」の掛け声、カッカッという馬蹄の音、馬上の射手によって射られた矢がパチンと的に命中する快音、これに呼応する観衆のどよめき・・・まことに勇壮な夏祭りのクライマックスである。これがすむと、射手は神前で健康と息災を祈り、的板と神符を受けて、流鏑馬行事は終わる。

4 ぶたい(舞台)

 やぶさめが終わるころになると、宵闇が境内を閉じこめ始める。そのころになると長い引き網に曳かれ、無数のほうずき堤灯に火をともした6台のぶたいが、上り囃子もにぎやかに境内に入ってくる。ぶたいは京都の祇園祭りの系統をくむ、いわゆる山車であるが、大黒町を先頭にして、九日町、六日町、高見町、八日町、五日町と五台がこれに続いてくる。これらの町々から出場する6台のぶたいは、それぞれの由緒をもつ飾りものや形態をもっている。
 以下順を追ってその特徴を述べることにする。

(1) 大黒町
  転向自在の三つ車で、明治5年松本本町2丁目から譲り受けたものといわれ、階上の人形は大黒主命(大黒天)である。彫刻は江戸後期、文政のころ諏訪の立川和四郎當昌の作で、大町市の文化財に指定されている

(2) 九日町
  階上の人形は安珍清姫と小坊主で、後天井からは箱入りの古面がつるしてある。この面は鬼女の面で、箱から出せばたちまち大雨が降るという伝承がある。

(3) 六日町
  およそ300年前のものといわれ、嘉永のころ修理を加えた旨の墨書が残っている。このぶたいの欄間の正面には白狐のあやつりがあり、はやしに合わせて首と手を動かすので人気を集めている。なお、近年階上には、篠田の狐の伝説にちなんだ狩装束の武士の人形が飾られるようになった。

(4) 高見町
  天保年間に再建され、柱には金箔をほどこした上り竜の彫刻がまつわりついている。これは、明治末の火災で欄間と車輪が焼けたので新調された。階上には高見町の火荒神の神体とされている古い獅子頭と幌が安置してある。これは、昔戦陣で仁科盛遠が使用したものと伝え、異変の際には、その前兆としてパクパク口を開くとか、鼻の穴に指を入れると神罰があたるなどの伝説がある。
 
(5) 八日町
  転換自在の二輪の大八車であるが、桃山風の屋根が古風で美しい。昔は楠木正成と正行の湊川袂別の人形があったというが、明治23年(1890)八日町火災の際焼失してしまった。

(6) 五日町
  舟と呼ばれる松本平特有の古い形をそなえたぶたいで、屋根には帆柱をさしたという穴があいている。このような6台のぶたいは、いったん町尻の五日町に集結し、やぶさめよりおくれて順次に本通りを行進し、夕方若一王子神社境内に達するのである。その間、ぶたいは長い引網で町内の青年や小中学生などに引かれてくるのであるが、ぶたいの階下に乗っている人々によって勇壮な・ぶたいばやし・が湊される。ぶたい囃子は各町内ごとに多少のちがいはあるものの、神社に向かう道中に流す軽快な「上り囃子」と帰途に流す「下り囃子」、若一王子神社の神前で奉納する壮重な「神前囃子」と3部曲にわかれている。特に1台ずつ神前に出て奏する曲が、社殿と暗い森の中へ吸いこまれるように流れてゆく情緒は、何ともいえない趣きがある。


大町市の主な史跡と文化財

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信州ふるさと通信
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