2 大町の石神・石仏

 市域には、民間信仰による石神石仏が路傍や寺または堂の境内などに建てられている。その種類は非常に多いが、主なものについて述べることにする。

1 33番観音石仏群
観音信仰が盛んになり、観音霊場めぐりが普及してくるにしたがって、各地に、33観音または百体観音像を石に刻んで建立することが盛んになった。すなわち、6観音または7観音といわれる33札所の本尊である。したがって、一般庶民は札所めぐりをしなくとも、近くの寺や堂、街道筋で巡拝することができるようにされていたのである。
 これらの観音像は33観音または百体観音として、まとまった形で配列されているものもあれば、独尊として建てられたものもある。市域における33番石仏群は、仏崎観音堂(寺)の参道とその境内、六角堂の参道や木舟の浄福寺跡、松崎の薬師寺、借馬の海岳院などに好例がある。なお大町エネルギー博物館の敷地内には、もと大町から葛温泉に至る湯場への道筋にあった百体観音等の石仏のうち27体が集合されている。特に、千国街道の要衝佐野坂には、白馬村佐野から平地区青木湖畔に至る道筋に西国33番観音石仏が安置されている。

2 六観音・7観音石仏
以上の33番観音は聖観音・11面観音・不空羂索観音・千手観音・馬頭観音・如意輪観音・准胝観音として造像されている。観音には、それぞれの願いと力があり、造立者もそれを胸にもって願いのかなうべく造立するのである。一般に各地で造像がみられるのは江戸時代中期以降明治におよび中期以前の造立は大町周辺にはみられない。

3 道祖神
道祖神は道ろく神ともいい、集落の入口など木戸毎に建てられている石神である。大町付近でも道祖神は江戸時代の中ごろから、道中安全、さまざまな病気や悪疫流行、災難の侵入から守ってくれる神として、あるいわ縁結び、子孫繁栄、五穀豊穰をもたらす神として一般に深く信仰されてきた。素朴な民間信仰ではあっても、人々は真摯な願いと祈りを道祖神に託して、日常目につく道ばたに碑を建てたのである。道祖神の形態には「道祖神」と書かれた文字碑と、男神女神の双体像を彫刻した碑の2つがある。また、男女2神の併立している形には、手を握り合っている握手像、酒器を持っている祝言像、2神が寄りそって立っている添立像などさまざまなものがあるが、市域にある道祖神の2神像は多く握手像である。
 大町における道祖神で、年代のはっきりしているものは化政年間以降のものが多く、中でもっとも古いものは清水の中村にある亨和2年(1802)の抱肩像である。

4 大黒天
 
道祖神のほか、北安曇郡の各村では大黒天の石像が多く目につく、殊に大町市では、常盤供23、平地区24、大町区11、社地区5の計63体の石像がある。造立は比較的新しく文化元年(1804)、元治元年(1864)と大正13年(1924)が甲子の年にあたるので、この年の前後に建てられたものが多い。
 大黒天は古くから七福神のひとつとして信仰されてきたが、やがて単独に信仰されるようになった。単独神としては、2つ並べた米俵の上に乗っている立像または座像が多く、米を中心とする農作物の豊穰を司る福神として厨房の神または家内安全、部落や村の安全を守る福神とされている。
 多くの大黒天像の中で最も古く、大きなものは、大黒町の追分にある。造立年代は嘉永5年(1854)で、高遠の石工、伊藤十、留十の2人によって作られている。高さは257・、幅172・、厚さ40・の花崗岩に刻まれている。
 なるべく多くの人に踏まれた石に刻んだものがよいという信仰があり、この石材は九日町北端の町川にかかっていた石橋であると伝えられている。この石橋が起点となって、明治初年、この北部に俵町が成立し、江戸時代の中ごろにできた南部の新町が大黒町と改称されるようになったといういわれをもっている。
 なお、建碑の多くは集落または近くの集落が共同して造っているが、中には個人で建てたものもある。製作者の大部分は大町の石工である。

 庚申塔

60年に一度めぐってくる庚申の日に、その夜を眠らず過ごす庚申待は、古くから行われている信仰である。これは人の身中にあって人を短命にする三尸の虫を除いて、長生きと健康を願う道教の信仰が源流になっているといわれている。庚申塔は60年に一度の庚申の年に建てられた。
 庚申塔などの文字碑や青面童子像を刻んだ像塔が市内の各所に残されている。また、庚申待は「かのえさる」の日に行われるので、「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿を三尸になぞらえて刻んでいるものもある。
 庚申塔の建碑は江戸時代の中期以降のものが多く、元文5年(1740)、寛政12年(1800)、万延元年(1860)、大正9年(1920)、昭和55年(1980)およびその前後に建てられいるものが多い。主に寺や堂、神社の境内や路傍に多く残されているが、大町大黒町の糸魚川街道と長野街道の分岐点「追分」に建てられている庚申塔は、延亨元年(1744)に建てられた文字碑であるが「右善光寺道 左越後道」と記され道標を兼ねている。昭和55年(1980)の庚申年に、市内では、15ヵ所で16の文字碑が再建されている。このうち常光寺では2塔を建て東海の口では塔の高さ210・という市内最大の塔を建てている。

6 名号碑

阿弥陀如来の名をたたえる「南無阿弥陀仏」を名号と呼び、これを称念する者は必ず極楽に往生するといわれ、大町では江戸時代中期ごろから浄土宗を中心にこの信仰が盛んになった。念仏講の人々が数千日間念仏修行を続け、その延べが一万日以上になると、石碑に刻んで供養した。弾誓寺境内には、宝暦2年(1732)の三万日回向、文化10年(1813)の五万日回向、天保13年(1842)の六万日回向、文久3年(1863)の二万日回向、年号 不詳の四万日回向、七万日回向等の回向塔が建てられている。
 また弾誓寺内には独特の書体を刻んだ徳本上人の念仏碑があり、その他にも大町の長性院(六角堂)や常盤地区の清水寺境内など各所に残されている。徳本上人は宝暦8年(1758)紀州日高に生まれ、30歳ごろから6ヶ月間吉野山中で修業した後、各地を巡錫して念仏をすすめた高僧である。文化13年(1816)大町に入り弾誓寺で念仏講をひろめた。その時、講に与えた名号を、後に講中の人々が石に刻んで残したものが徳本の名号碑である。徳本名号の自署の下にある+の花押は、「鬼殺す心は丸く田の内に南無阿弥陀仏と浮ぶ月影」と詠んだ心のあらわれである。

7 月待碑

月待塔というのは、特定の月齢の夜に集まり、月待の行事を行った講中が、供養のしるしに造立した13夜塔、15夜塔、16夜塔、23夜塔、26夜塔等の総称である。その中で特に多いのは23夜塔である。
 23日の夜、講中の人が集まり、勤行や飲食を供にして、月の出を待つ行事を23夜の月待という。この講は23夜講とか3夜講といわれ、女性だけの講も多かった。これ等の人々によって建てられた石碑の大部分は文字塔で江戸時代中ごろ以降のものが多い。
 大町市では道祖神、庚申塔などと並んで路傍、寺や堂の境内などで見ることができる。

8 その他

以上の石神石仏のほか、経典の名称を刻んだ刻経塔、法華経または大乗妙典等の読誦塔があり、また四国66ヶ所霊場めぐりをはじめ西国・阪東・秩父の札所めぐりを果たした記念とか供養のため建てられた廻国塔や巡拝塔も多い。


大町市の主な史跡と文化財

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信州ふるさと通信
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