Iターンネットワーク

新・信州人倶楽部


▲▲▲ 新・信州人倶楽部報 ▲▲▲



第49号

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〜私達が池田町にIターンしたのは…〜


石井 陽子


 私達は結婚して暫くの間2人の生活が続き、その頃は美味しい物を食べスキーやテニスをやり、自由気ままに暮らしていました。1993年に娘が生まれたのですが、娘が生後6ヶ月頃から顔にアトピーができ始めてしまったのです。それまで食事には無頓着で、臨月まで働いていた頃に食べていたコンビニのお弁当が悪かったのかなあ、と1人思い悩んでいました。

 私が出産した助産院の先生は「果汁は火を通してから与えなさい」と言い、今の世の中は「早く離乳食を始めなさい」「早くお座りしなさい」「早く立ちなさい」と何でも早くできる事が素晴らしいと思っているがそんな事はない。危険な食事をするよりもお母さんの安全な母乳を飲み、その子に合ったスピードで足腰に負担をかけないで2本足で立つのが大切ですよ、と教えていただきました。
幸いにもそれから私が食事に気をつけたお陰で、お誕生を迎える頃には娘のアトピーもすっかりきれいになりました。

 その頃から食べ物に関する本を読みあさり、自分の食べるものは自分で作るのが一番安全と考えるようになり、将来食糧不足の時代が到来した時のために、自給自足ができる田舎へ住みたいなあと思い始めました。夫も野山で育った人でしたので、自分の畑が持てることに憧れがあったようで、2人の思いはどんどん広がっていきました。そして娘たちのことを考えると「小学校入学前に移住しなければ」と急に田舎暮らしが現実味を帯びてきたのです。

 移住先は日本全国どこでも良かったのですが、どうせ住むならおいしい水のあるところがいいと九州阿蘇の白水村まで尋ねて行ったことがありました。しかしその時「知人は居なくてもいいけれど馴染みのない土地には住めないな」と体が感じました。そして私達が住んでいた相模原からも交通アクセスが良くスキーでたびたび訪れていた信州に落ち着いたのでした。

 夫も会社を退職する心の準備はできていましたが、私たちには持ち家があったため家が売れなければどうすることもできず、しばらく宙ぶらりんな生活が続きました。
何人か見学の方がみえたのですが結構土地が広かったせいもあり、なかなか決まらなかったのです。やがて売り家の金額を下げる時期が近づいてきた頃、ついに東京の人が契約をしてくれました。
そうなると今度は急いで家を出て行かなければなりません。ということで1997年5月、とりあえず犬も一緒に住める借家を穂高に見つけ仮住まいを始めてしまいました。夫の方は仕事のけりがつくまで会社の保養所に住む許可をもらい、そこから通勤しました。

 退職するにあたっては「娘のアトピーもあり生活環境を自然の多い所に移したい」ことも考慮され「希望退職」の枠に入る事ができました。
穂高では失業保険給付中の夫が主夫になり子育てをし、私が働きました。子育て中の夫は日に日に私と立場が逆転し、一日中ストレスで娘たちにガミガミ小言を言う毎日。私はそれを見て「子育ては悟らなきゃできないのよ」と涼しい顔…。子育て解放後の夫はもう二度とやらないと言っていましたが、貴重な経験はすぐ忘れてしまうようです。

 穂高での生活が半年ほど経ち観光客気分が抜けてきた頃、そろそろ安住の地を捜そうと不動産巡りを始めました。そのうちの一つが池田の今の土地だったのです。でもその時は「自給自足は人里離れた山の中」という今から思うと笑っちゃうような思いに駆られていて、そこの土地をさほど気にもせず月日は過ぎていきました。

 しかし売り地はこちらで言う団地ばかりで私たちが目指している「土地の人と一緒に暮らす畑のある家」はありません。そんなある日池田の土地を見に行ったところ、まだ売れていなくて、「目の前にある神社の満開の桜」が私たちを迎えているように感じたのです。
すぐに地主さんを訪ね土地を売って欲しいと頼みましたが300坪なら良いという返事。私たちの予算では半分しか買えず肩を落として帰りました。

 それから2〜3日経ったある日、地主さんから電話がありました。「土地は見つかったかい?」、「いえまだです」、「仕事をやめて家を売って小さい子がいてどうするだ。もう1度息子と相談してみるよ」と言ってくれたのです。こうして私たちは池田に根を下ろすことができました。
住んでみて池田は老人と子供に対してとても考えてくれる自治体だという事が分かり、近隣の100歳のお年寄りに100万円も出すのに子供を大事にしないH村と比較すると池田の方がはるかにまともでした。

 最後にこれから移住を考えている方にお伝えしたい事は、10年後に家族構成はどうなっているかです。私たちは子供が小さかったため自分たちだけの事しか念頭になく、「山の中」などと思っていましたが、小学校に自分の足で通学できない所だと親掛かりになってしまうのです。うちは幸い小・中学校は通えますが高校は駅まで送り迎えかもしれません。まだまだ子供に関する問題は出てきそうですが、山のにおいが感じられる生活は切り離せそうにありません。

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〜信州青木村に暮らして〜


岡崎 華那子


 合併しない長野県小県郡青木村へ移住して、10月1日で5年目を迎えます。
主人の定年3年前からですが、私が気管支ぜん息でしたので、終の住み処は空気のきれいな、水の美味しい、緑が多いところ、といろいろ欲張ってみました。


 まず東京(檜原村、日出町)、千葉(本埜村、下総町)、山梨(白州町、小淵沢町)、静岡(伊豆高原、三ケ日町)など、週末は小旅行気分で探し回りましたが、全て決まりませんでした。
主治医に話をしているうちに、おばあちゃんが信州上田市に住んでいて、夏休みの子供を連れていくこと、主治医の大先輩が青木村の診療所にて、糖尿病、蜂の権威者であると教えられていました。その頃、青木村に横浜から来てペンション経営して田舎暮らしを愉しんでいるご夫婦がいると聞き、宿泊を決め、青木村の住み心地、どこで土地を手に入れたか、その他、偶然にもご主人様がぜん息病だったことをうかがいました。そして土地を買った不動産屋を紹介して頂きました。

 それから東京新橋にあった不動産屋より青木村の土地をゲット、1年5か月仮住まいをしながら、健康にこだわった自然素材のオリジナルハウスを完成。長い時間を要して田舎暮らしにやっと落ち着きました。

 ところで、今、団塊世代の定年後の暮らしを考えるとかで、「田舎暮らし」がブームになっていることから、いとも簡単に手に入れることが出来るかのように新聞、テレビ、雑誌などで紹介していて、いい時代になったものだと思っていました。

 5月23日夜7時、夕食中に友人より電話があり、「見てみて、東京テレビ12チャンネルで例のペンションのご夫婦が“月10万円で豊かに暮らせる町&村”に出ているわよ」と。その後、夜9時30分まで延々と7件も電話が入り、テレビの力のすごさに圧倒されてしまいました。

  でも私達もこの青木村で暮らしていて、どのくらいの生活費が必要かは理解しています。あのペンションが自給自足をしている訳でもないので、どう考えても「月10万円で豊かに暮らせる」というのは大きな?マークが付くものでした。

 さて、続きは次号とさせて頂きます。


 ここで青木村のPRを少々。
青木村では、若者定住促進と人口増加を図るとともに、豊かで活力ある魅力的な村作りに若者が寄与することを目的に、良い制度がありますよ。どうぞ一度お越しくださいませ。
1. 地域の活性化を図るため、定住の若者(16歳以上、40歳以下)の方に、住宅用地取得補助金100万円を交付。条件などいろいろあり。
2. 地球温暖化防止対策の一環として新エネルギーの導入を促進するため、住宅用太陽光発電システム補助金30万円の制度。
3. 不妊治療費給付(年30万円、総額100万円まで)制度。
4. チャイルドシート購入補助金制度。
5. 出産祝い金(第1子3万円、第2子5万円、第3子以降10万円)制度。
6. 青木村保育料特例(第2子保育料1/2に軽減、第3子以降全額軽減)制度。
などなどです。

 

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〜松本地域の交通マナーについて〜


中澤 滋


 私達倶楽部員の間でもたびたび話題になり、新聞の投書欄にもよく出る「車の運転マナー」について書いてみます。
松本地域では、確かに自分中心の独りよがりの運転が多くて、私などいつも怒りっぱなしではありますが、「何でこうなのかな?」と少し考えてみました。

 よく言われることに、交差点での対向車の左折に合わせた危険な右折があります。まだ私が信州に移住する前だったと思いますが、松本の渚交差点で158号から19号に右折のため待っていたら、私の後ろの車が強引に私を追い越して右折をしていったことがあります。私はただ漫然と待っていた訳でもないので、それはただ「すごい!」の一言でした。でもスムースな交通の流れから見ると、対向車にブレーキを踏ませるような右折は避けるべきです。


 郊外の畑の中を通る裏道では、一時停止の標識を無視する車も多く、こちらが優先道路で走っているところ、前方の交差点を横から向かう車が突然スピードを上げて私の直前で横切り、こちらはブレーキをかけざるを得ない、ということもありました。ですから裏道ではよく事故を目撃しますが、恐ろしいものです。このような人は大体男性です。


 それから右左折のときにウィンカーを出さず、ハンドルを回したときに出す人が多いのも困りものです。30メートル手前、あるいは必要に応じて早く出すべきものですが、自分だけがよければ、ということなのでしょう。
 でも早すぎると、止まっている車が「自分の道に入る」と勘違いするので、自分がその向こうの駐車場などに入るときは、危険なのでその車を通過するときにウィンカーを出すべきです。ようは安全にスムースな流れを作るように配慮しながらウィンカーを出せばいいのですが、これが出来ない人が多い、つまり運転技術が未熟なのだと思います。


 交差点で信号待ちをしているとき、前の車が突然右折のウィンカーを出すと後ろの車は左によけて直進することも出来ず、大きな迷惑です。また狭い横道から左折で出ようとする車がいるときに、その道に入りたい車は早めにウィンカーを出すことで、スムースな流れを作れますが、そのようなことをする人は3割程度のように思えます。
 また右折の車が交差点の中ほどまで出ないで、横断歩道の手前で止まっていたり、中央線に寄らないで、道路の真ん中で右折ランプを点滅させている人。少し右によれば後続車が通過できるのに全く迷惑です!。

 狭い道で対向車線に駐車中の車がいても平気でこちらの車線に出てくる車も多く、こちらがブレーキをかけなければならないこともあり、短気な私はクラクションを鳴らして怒ります。それも2台3台と金魚のふんみたいに来るときは、耐えきれずにこちらも強引に行き、相手をバックさせたこともあります。こうなるともう喧嘩を覚悟の運転で、とても危険なことです。

 それから2車線ある国道などで、右側車線をのろのろ走る車のなんと多いことでしょう。
波田町の知人が以前、「私は下新から渚の交差点まで、ずーと右車線を走り続けます」と得意げに言っていました。距離にすると5キロくらいはあると思うのですが、左側車線にいると途中での車線変更があるので大変、という苦手意識からのようです。

 倶楽部にもそのような方がいて、「○○さん、それは迷惑なことだよ」といったら、一緒にいた別の方が「追い越し車線じゃないからいいんだよ」と変なことを言っていました。確かに高速道路ではないので、追い越し車線とは言いませんが、何かわだかまりがあり、家に帰り早速免許書き換えのときに貰った教則本を調べました。
 それによると「複数の車線がある道路では、車は左側車線を走らなければならない」とちゃんと書いてあり、「そうだよな」と安心したものです。
  まったくいい加減なことを言う人がいるものですが、このことから分かるように、車の運転では運転手の都合のいいように考えることが多いので、それもマナーの悪さの原因になっているのは確かでしょう。

 さて、ここでタウン情報の投稿欄からいくつか紹介します。
2004年7月28日のある女性は「タクシー運転手のマナーが気になる」として「先日信号の無い横断歩道の反対車線側で渡ろうとしている歩行者がいたので、私が車を停止させているにも関わらず、歩行者側を直進してきたタクシーはよりによって2台が2台とも素通りしていきました。
 私の記憶では自分が右折しようとウィンカーを出しているとき、パッシングをしてスピードを緩め右折を促してくれるのはトラックの運転手や一般のドライバーの方ばかりです。
 極め付けは、信大病院前の信号機で私が見かけた光景。右折車線にずらりと並んだ病院行きの車輌を横目に、直進車線から来たタクシーが次々と右折していくのです。右折待ちの一般ドライバーの方は、直進車線からの右折タクシーに驚いて右折のタイミングを失ってしまい、更なる混雑を招いているようでした」と述べていました。

 2004年8月6日には、ある女性が「道を譲っても挨拶をしない人が多い。特に女性の方。そのため意地悪ですが対向車のドライバーが女性だと譲りません。私はまだ人間が出来ていないので受け流すことが出来ません」ということを言っていましたが、その気持ち良く分かります。

 私は横断歩道の歩行者に対しては特別真面目で、歩行者がいるかどうかを常に注意して、いるときは必ず止まるよう心掛けています。それでも気付かずに止まることができなかったときは、「ああ、悪いことしちゃったな…」と、バックミラーを見ながら思います。対向車が止まってくれないときには、パッシングで知らせますが、それでも平気で素通りする人が多いのです。また止まってくれるのは圧倒的に男性が多いのも気になります。

 それから車の車間を取らずに後ろにはり付いてくるドライバーも多く、軽自動車の女性が多いようです。女性特有のせっかちな性分なのかな? と思うことがありますが、追い越し可能な道路でもそのまま追い越さずに行くので、別に嫌がらせをしている風でもありません。
 そんな車2台が前にいて遅い場合、わたしは2台とも追い越していきますが、中には、はり付いていた車が私と同じように追い越して、猛然と私を煽ってくるのです。初めから追い越すつもりがなかったくせに、何なんでしょうね…まったく。

 それから狭い道を対向車がきているのに寄らない車、見通しの悪いカーブでセンターラインを割ってくる車、もうこれらはマナーの問題ではなくて運転が「ただ下手!」というだけのものです。そんな松本地域の運転を考えると、どうやら問題は女性ドライバーの数が多いことと関連性があるように思えてなりません。

 「えい、いっちゃえ…」などの感覚で、「相手が待ってくれる、避けてくれる」という自分勝手な人、社会的なこと・全体の車の流れを考えようとしない人は、どうも女性のほうが多いと思うのです。例えば、デパートやスーパーなどで込み合ったときに2人並んで歩く人、そんなときに後ろの人が自分達を追い越したいと迫っている気配を感じて、通路を譲ってくれる人は大体男性です。夫婦の場合は、男性が奥さんによけるよう促すこともよくあります。

 こんなことから運転技術の未熟な人、とっさの判断が下手な人、そして車の流れを考えようとしない人、それらの原因は女性ドライバーの多さ、という結論になった訳です。女性ドライバーの方には「偏見」とか「ひどいわ!」と言われそうですが、どうでしょうか?
 女房も最初は私のそんな発言を快く思っていませんでしたが、最近はあまり言わなくなりました。  ということは…?



 

〜みたぼら通信〜


伊豆 光男

第365号 2005年大暑
 先日、私たち姉妹は、通信高校の集中スクーリングに行ってきた。家を五時に出て、電車とバスを乗り継いで、会場の青年の家に着いたのは11時。参加者の中でも遠いほうである。4泊5日、勉強付けの毎日である。

 青年の家は、筑波大学の陸上部の人たちが合宿にくるほど標高が高かった。
なので、とにもかくにも寒い。半袖では寒くて一日中上着を手放せない。そのうえ、朝は6時半起床で夕食の後も授業がある。だが周りの子たちはやたらと元気である。授業が終わってから体育館に行くと、風呂に入る準備をしてみんながバスケットボールやバトミントンや卓球をしている。若い先生までが一緒になって駆け回っていた。私などは、毎日10時前には寝ていたのだから、ひ弱なものである。体育があった日でもその調子で遊んでいる。とにかく若い人は元気だ(私をそのくくりに入れるのは間違いだと気が付いた)。朝も早よから夜遅くまで、頭と体をフル稼働させているのだからどこかにしわ寄せが来る。日が経つにつれ、授業中に寝ている人が多くなり始める。ふと振り返ると、20人ほどのクラスで3人は寝ている。私だって眠い。体力、学力、理解力。足りない分はガッツで補え!
 
 5日間も団体生活をしていると、いろいろなことが起きる。面白い先生にであったり、新しい友人ができたり。そのあたりは良い出来事である。だが、中には途中で脱走して家に帰ってしまう人など、とんでもないハプニングが起きたりする。そこはそれ通信制である。ちょっと不良っぽい人から、年配の人生経験豊かな方まで、これだけいろいろな人が入り混じっていると、ぱっと見、誰が先生で生徒なのか区別が付かない。この寄せ集めたような面々が、最終日にはそれなりのまとまりを見せるのだから面白い。

 ここでちょっと話がそれるが、今ではたいていの人が携帯電話を持っている。持っていないのなど私達くらいのものである。だが、某社の携帯は、エリアが狭いのか圏外になってしまう。同室になった女の子が、携帯を片手に渡り廊下を行ったりきたりしている。「何をしているの?」と聞くと、大真面目な顔をして「今、電波を捜してる」 そもそも電波は捜すものではない。同じ年代の人たちにとって、携帯が通じ無いのは重大な問題らしい。私など、携帯が無かろうが、インターネットができなかろうが、テレビが見られなかろうがなんでもない人種である。いわゆる今時の若者から一歩ずれたところに居るようだ。

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第366号 2005年立秋
 台風はかすめ過ぎ、暑さに我が家の動物達がばて始めた昨今。日本猫、リリーがとんでもないものを連れてきた。
 それは、私達の気づかぬ夜中に持ち込まれ、次の日の午後まで気づかれずに、仕事部屋の斜面に面した床下に放置されていた。最初にそれに気づいた父は、嬉しそうに私のところにやってきて、「床下に面白いものが転がっている。」と言う。何かと思い行ってみると、明らかにリリーよりも大きな野うさぎが転がっていた。茶色の夏毛をまとって、とうの昔に天国に召されている。その上では、梁に寝そべったリリーが偉そうに私を見下ろしていた。すでにご馳走にありついたらしく、ウサギの片足は見る影もない。

 我が家には、以前にもウサギを取ってきたマキと言う猫が居たが、彼は住み着いてじきに我が家に見切りをつけて出て行った。彼は、私が保育園にいたころ貰われてきたオス猫で、やたらとでかく、私以外にはよく手を出すのであまり好かれていなかった。家出をした原因はそこにあると私は思っている。が、彼の取ったウサギでさえ、今回のものより小ぶりだった。我が家の面々が唖然としている中、当のリリーはかなりお疲れのようで、やつれた顔で夜、ウサギの見張り番から帰ってきた。

 このあと、家の周囲で繰り広げられる食物連鎖に、私たちは目を見張るのだった。
次の日の朝いってみると、ウサギは忽然と姿を消した。リリーはやつれ顔で本棚の上を占拠して寝ている。道端には、何者かがウサギを引きずったと思われる跡と、臓物と脚が二本落ちていた。狐か狸かハクビシンか。とにかく、その類のものが持ち去ったらしいのだが、いったいこれを誰が片付けるのか、そんなことを考えながら朝食をとっていると、父がまたもややって来て、「蛇が臓物を飲んでいる」と。父は、つい先日にも、鶏舎で玉子を飲んでいた1メートル以上はあろうかという蛇を、高枝切バサミで始末したばかりだった。いったいうちにはどれだけ蛇がいるのかとあきれ果てていると、「見に行く? 見に行く?」と父が嬉しそうな顔をして聞く。

 こういう時、なぜか父はご機嫌なのだ。確かに、そこには未だかつて見たことも無い光景が広がっているだろう。ただ、その後のことを考えると…。ただでさえ夏バテ気味の私である。これ以上の食欲減退は避けたい。と言うわけで、私はまだ多少の食欲を保ったままである。が、しばらくレバーは食べたくないと思う私たちなのだった。(より夏)


編集後記

 穂高町、豊科町、明科町、三郷村、堀金村の5町村の合併による「安曇野市」誕生まで、約1ヶ月となりました。平成の大合併により、県内の市町村数は合併前の120から81へと約3分の2に減少し、長野県の地図も大きく塗り変わります。合併はあくまでもひとつの手段であり、官主体から住民主体への転換の第一歩にすぎません。信州が故郷となる子ども達のためにも、私達住民ひとりひとりが自覚を持って主体的に行動することが求められているのだと思います(宮)

 穂高町の海抜は、私の自宅付近でおよそ550m前後。それだけの標高があっても真夏の気温は他県と変わらず日中30度を軽く超えたりしますが、東京タワーのてっぺんよりもまだ200m以上も高い場所で生活していると考えてみれば、なんとも不思議な感覚になります。東京上空550mに広がる安曇野平…、すみません、仕事で炎天下の現場に出て暑さボケしてしまい、おかしな想像ばかりしている今日この頃です。(高)

 8月の初め頃、隣の庭から我が家の庭になんと一匹のオニヤンマが訪ねてきました。あわてて外に出て観察です。
近くに行っても一向に逃げる気配は無く、何やら探し物をしているのか、何回も旋回しては私の目の前を通り過ぎます。スズメバチに似た「ぶーん」という羽音が、目の前の空気をびりびり振動させます。40cm向こうに大きなグリーンの目、そして鮮明な体の色にも圧倒されました。さすが、トンボの王者の貫録十分です。しばらく私の前で飛び回っていましたが、得るものがなかったようで家の前のリンゴ畑に飛んでいきました。夏の日の良い体験でした。(中)

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